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『人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答』

2009.11.19 *Thu
私が今一番注目している日本の僧侶・南直哉老師様と、茂木さんの対談集。
茂木さんはテレビにいっぱい出始める前から著作を読んでいて、今回もおもしろい人と対談したなぁと思う。

頭でいくら考えたって、死んじゃいけない理屈なんてない。人は現に自殺できる能力があるんですから。これは選択の問題なんです。

こういうことを僧侶として言えちゃう南老師様はすごいと思う。
何がすごいって、人間としてぎりぎりのところで『生』と向き合っているから。
ぎりぎりのところで命がけで戦って向き合わないと、簡単には言えないことだし言っちゃいけないと思う。

私は、南老師様が名僧と呼ばれる人だからとか、一般の人に向かってありがた~いお話をしてくれるからだとか、現代の日本仏教界において改革者だからとか、そういった理由で南老師様に注目したわけじゃないとつくづく思う。

いわゆる『シンパシー』

曹洞宗の老師にまでなられた方にシンパシーとは、「おまえは何様だ!」と言われそうだけど。

南老師様のブログから引用させていただく。

宗教者の素質として私が一番大事だと思っているのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。
 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安です。どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか。なぜここにいるのか、どこから来てどこへ行くのか。そういう問いが自分を底の方から揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことでなく、「持たない」ことなのです。いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も大切だと、私は思っています。それは、ある意味、「無明」や「原罪」などという言葉に極めて敏感に反応するセンスでしょう。(2009年9月9日)


あああ…言葉に尽くしがたいものがこみ上げてきます。
そうなんです。そうなんです。
この『問い』が、常に自分の一番深いところにあり、いつも自分を突き上げ、いつも苦しくて痛くて、それでもその『問い』を持ち続けるしかない悲しみが寄り添い、決して本当の意味での平安が訪れないことを本能的に感じていて、そういう『生』を引き受けるしかないこと。

「破綻しないでいたい」とか「安心できる居場所がほしい」ということを、自分で断念することから始めるしかないわけです。
つまりそれが生を引き受けることだと私は思うわけです。先ほどから私が、生きることよりも、生きることを引き受けることが決定的に大事だと言っているのは、生が破綻していても構わないと覚悟を決めちゃうことなんですよ。それがいいかどうかはわかりません。ただ、僕はそういう人に激しく共感するし、その決断を尊いと思う。このニュアンスがわかる人には一発でわかる。大抵病んだ人ですけどね。(本文より)


あああ…激しく病んでるので一発でわかりましたよ(笑)
なんか、こういう病んでるセンスって、ニーチェとか中島義道氏にも感じるんですが。

僧侶で、こういうことをちゃんと表明してくださる方がいて、同じ感覚を持っている人がいると知るのは大変喜ばしいことです。(ちょっと励まされる)
祝い酒を飲みたいくらい。(お酒飲めないけど)

きっといつか破綻しつくして、崩壊して死骸はその辺にゴミのように横たわるだけでしょうけれど、そんな人生でも生きててよかったと思えそうです。
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月子

名前:月子
本の感想等を書いてます。
好奇心旺盛なので、興味がわくとあっちゃこっちゃの扉を叩きます。でも、熱しやすく冷めやすいかも(汗)

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●書物に関する記事は、旧ブログからのサルベージもあります。



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